中国・朝鮮との交流を通して、大和朝廷のもとに大量の鉄が集まった結果として、鉄は武器や武具・馬具以外にも使われるようになって、鉄製農工具や鉄製釣針が普及しました。
農具の発達が顕著に目立ち、5世紀中ごろでは、弥生時代後期以来で使われてきた長方形の鉄板の両端を折り曲げた鍬先を使わずに、U字型の鍬先が出現して、それまでの湿田や半湿田以外に、乾田や畑が開発できるようになりました。
性能の良い鉄製農具は6世紀には関東地方でも使用されるようになりました。
また埴輪にみられる住居建築にも豪壮な建物や倉が現れました。
しかし農民は竪穴住居に住んでいました。
竪穴住居の中には炉にかわり、煙を屋外にだす釜戸が取り付けられるようになったので、住居は住みやすくなりました。
古墳時代後期には支配者だけではなく、有力な農民の間でも古墳が作られるようになって、横穴式石室(棺や副葬品をおさめる玄室と外部との通路である羨道からなっています。
入り口の閉塞石を取り除けば何人でも葬られます)をもつ小円墳が10数個100数個と固まって作られました。
これを群集墳(数がきわめて多いだけではなく、墳丘が小さく、副葬品も貧弱で、支配者の墓とは考えられませんが、農民の中でも有力者でありました)と呼びます。
7世紀になると、支配者の間では、巨大な古墳を作る風習がかわって寺院が建てられるようになりました。
